第19歩兵連隊について
当団体が再現の対象とする Infanterie-Regiment 19(第19歩兵連隊)は、バイエルンの伝統を受け継ぐ部隊として編成され、第二次世界大戦の主要な戦役に従軍しました。本稿ではその沿革を、編成から改称、各戦線での行動までたどります。
- 編成
- 1921年1月1日(Reichswehr / ライヒスヴェーア=共和国軍)
- 母体
- 旧バイエルン王国軍の諸部隊(主に Infanterie-Regiment 41/42=第41・第42歩兵連隊)
- 上級部隊
- 7. Division(第7師団)→ 7. Infanterie-Division(第7歩兵師団)
- 最終
- 1942年10月15日、Grenadier-Regiment 19(第19擲弾兵連隊)へ改称
AUFSTELLUNG 1921編成とバイエルンの伝統
Infanterie-Regiment 19(第19歩兵連隊)は、ヴェルサイユ条約下の10万人規模のReichswehr(ライヒスヴェーア=共和国軍)を編成する過程で、1921年1月1日に旧バイエルン王国軍の諸部隊を母体として、Wehrkreis VII(第7軍管区)において編成されました。編成にあたっては主に Infanterie-Regiment 41/42(第41・第42歩兵連隊)からの人員が充てられています。
連隊本部は München(ミュンヘン)に置かれ、I. Bataillon(第I大隊)と 13. (Minenwerfer) Kompanie(第13臼砲中隊)も同地に駐屯しました。II. Bataillon(第II大隊)は Augsburg(アウクスブルク)、III. Bataillon(第III大隊)本部と第11・第12中隊は Kempten(ケンプテン)、第9・第10中隊は Lindau(リンダウ)、Ausbildungs-Bataillon(補充教育大隊)は Landshut(ランツフート)と、いずれも第7軍管区内の各都市に分散して駐屯しています。
各 Kompanie(中隊)は、それぞれ旧バイエルン王国軍の名門連隊の伝統継承部隊として位置づけられました。たとえば第1・第2中隊は Infanterie-Leibregiment(バイエルン近衛歩兵連隊)、第3中隊は 1. Infanterie-Regiment „König“(「ケーニヒ」第1歩兵連隊)、第4中隊は 2. Infanterie-Regiment „Kronprinz“(「クロンプリンツ」第2歩兵連隊)の伝統を受け継いでいます。当団体が再現する第2中隊(2. Kompanie)もまた、こうしたバイエルンの軍事的伝統に連なる部隊です。
UMBENENNUNGEN改称の変遷
連隊はライヒスヴェーアからヴェーアマハト(国防軍)への拡張に伴い、たびたび名称を変えています。これは再軍備を秘匿するための偽装名(Tarnname)と、その後の正式名称化という、当時の時代背景を反映したものです。
- 1921.01.0119. (Bayer.) Infanterie-Regiment(19.〈バイエルン〉歩兵連隊)として編成
- 1934.10.01Infanterie-Regiment München(歩兵連隊ミュンヘン)へ改称。軍拡に伴う部隊偽装のため、地名を冠した名称が用いられた
- 1935.10.15部隊の秘匿解除に伴いInfanterie-Regiment 19(第19歩兵連隊)へ改称。7. Infanterie-Division(第7歩兵師団)の隷下に入る
- 1942.10.15ゲシャツク陣地にてGrenadier-Regiment 19(第19擲弾兵連隊)へ改称
EINSÄTZE従軍した戦役
戦間期 — オーストリア・ズデーテン進駐
1938年3月、連隊はオーストリア併合(Anschluss)に伴う進駐に参加し、ブラウナウ、ティットモニング、リートに一時駐留しました。本国帰還後の同年10月には、ズデーテン地方へ進駐しています。
ポーランド戦役(1939年)
1939年8月にスロヴァキアへ移動し、同地からポーランド戦役に参加しました。当初は所属する 7. Infanterie-Division(第7歩兵師団)の師団予備でしたが、9月2日に前線へ投入されてバラニア高地を攻略。9月5日までにミシレニツェへ進出し、9月14日にサン川に到達、9月21日にはレンベルク(リヴィウ)を占領して戦役を終えています。その後10月12日からミュンヘン=グラートバッハ方面へ鉄道輸送されました。
西方戦役(1940年)
1940年5月10日、連隊はベルギーの掩蓋陣地線を突破し、早くも午前8時頃には先頭がマース川を渡河。マース=シェルデ運河を越え、アルベール運河、ディール川へと前進しました。5月15日のディール陣地への攻撃ではリマルの町を占領して橋頭堡を築いています。
シェルデ川到達の際には大きな損害を被りましたが、ペックで渡河に成功し、リス川沿いでイギリス軍と激戦を交えました。5月29日までにダラディエ線を突破、5月30日にはリール攻撃を開始し、5月31日のリール降伏後にブルゴーニュへ移動。以降はフランス戦役末期を 7. Infanterie-Division(第7歩兵師団)の軍予備として過ごしました。
東部戦線(1941〜1942年)
1941年4月8日から東方への移動が始まり、ワルシャワ東方に展開。6月22日の独ソ開戦に際しては激しい掩蓋陣地戦を戦い、ナレフ川を渡河してビアウィストク包囲戦に加わりました。その後ミンスクを経て東進し、モギレフ橋頭堡、スモレンスク方面の戦闘を経て、エリニャ突出部の激戦に投入されています。
1941年10月以降はモスクワ攻勢に参加し、モスクワ防衛のための外郭要塞線を突破。ヴェレヤを激戦の末に占領しましたが、その後はソ連軍の反攻に晒され、11月21日にナルヴァ湖沼地帯に到達したところで防御に転じました。
1942年初頭の冬、ソ連軍の激しい攻撃により戦線後退を余儀なくされ、1月23日にゲシャツク陣地へ入ります。この冬の損害は甚大で、II. Bataillon(第II大隊)が解隊されるほどでした。連隊は1942年を通じてゲシャツク陣地に留まり、同年10月15日に Grenadier-Regiment 19(第19擲弾兵連隊)へと改称されて、その歴史に一つの区切りをつけました。
REGIMENTSKOMMANDEURE歴代連隊長
| 階級・氏名 | 在任期間 |
|---|---|
| Oberst Friedrich Ritter von Haack | 編成 – 1922.01.31 |
| Generalmajor Adolf Ritter von Ruith | 1922.02.01 – 1923.10.31 |
| Oberst Martin Ritter von Dittelberger | 1923.11.01 – 1925.01.31 |
| Oberst Karl Ritter von Prager | 1925.02.01 – 1927.01.31 |
| Oberst Hugo Ritter von Pflügel | 1927.02.01 – 1928.03.31 |
| Oberst Wilhelm Adam | 1928.04.01 – 1929.09.30 |
| Oberst Hans von Hößlin | 1929.10.01 – 1931.01.31 |
| Oberst Max Schindler | 1931.02.01 – 1933.02.28 |
| Oberst Karl Graf | 1933.03.01 – 1935.07.31 |
| Oberst Kurt Himer | 1935.08.01 – 1938.04.30 |
| Oberst Hans Zorn | 1938.05.01 – 1939.08.26 |
| Oberst Karl Pflaum | 1939.08.26 – 1941.09.30 |
| Oberst Hermann Pürckhauer | 1941.10.01 – 1942.10.15 |
| Oberst Max Eggeling | 1942.10.15 – 1943.07.31 |
| Oberst Max Reinwald | 1943.07.30 – 1944.10.25 |
| Oberstleutnant Hugo Schimmel | 1944.10.26 – 終戦 |
部隊の歩みに関する図版の出典:Chronik der 7. Infanterie-Division München, Bruckmann.